黒田三郎「ビヤホールで」
黒田三郎は吉野弘とともに、難解な現代詩の多い中にあって、平明に分かりやすく庶民の生活実感を謳いあげる詩人です。
ここに紹介します詩は、対人関係に不器用な男性がビヤホールという都会の喧騒の中に身を置きながら、心は別世界に遊んでいる情況を詠っているものです。仲間とワイワイ飲む酒も楽しいことですが、独り楽しい想いに心を馳せながら飲む酒、それも至福のひと時ですね。
なお、ゲーテの独り楽しむ酒の詩を参考に載せました。 由 無
参考:『日本の名随筆・酔』(作品社)、『ドイツ・リート名詩百選』
沈黙と行動の間を
紋白蝶のように
かるがると
美しく
僕はかつて翔んだことがない
黙っておれなくなって
大声でわめく
すると何かが僕の尻尾を手荒く引き据える
黙っていれば
黙っていればよかったのだと
何をしても無駄だと
白々しく黙りこむ
すると何かが乱暴に僕の足を踏みつける
黙っているやつがあるか
一歩でも二歩でも前に出ればよかったのだと
夕方のビヤホールはいっぱいのひとである
誰もが口々に勝手な熱をあげている
そのなかでひとり
ジョッキを傾ける僕の耳には
だが何一つことばらしいものはきこえない
たとえ僕が何かを言っても
たとえ僕が何かを言わなくても
それはここでは同じこと
見知らないひとの間で心安らかに
一杯のビールを飲む淋しいひととき
僕はただ無心にビールを飲み
都会の群衆の頭上を翔ぶ
一匹の紋白蝶を目に描く
彼女の目にうつる
はるかな菜の花畑のひろがりを
ビヤホールで
黒田三郎
1919(大正8)年広島県呉市生れ。東京帝大経済学部卒、インドネシア在留の部隊で終戦を迎える。
昭和22年「荒地」誌をグループで創刊。処女詩集『ひとりの女に』は愛する女性(のちの黒田三郎夫人)にあてた恋愛詩集である。
(詩集『ある日ある時』より)
私はひとりでいる
ひとりでいるほどきらくなことはない
私の酒をひとりで飲んでいる
だれも私を束縛しない
こうして私は自分の考えにふけのだ
(佐々木庸一訳)
ゲーテ『西東詩集』
「酌人の書」より