高村光太郎は智恵子にめぐり合い、彼女の純愛によって、以前の退廃の生活から救い出された経歴があるゆえに、その最愛の妻の死による精神的打撃は烈しかったのです。彼女の生きた証をと編纂した『智恵子抄』の中の「智恵子は東京に空が無いといふ…」という詩は有名です。本編では、光太郎が智恵子を偲びつつ彼女が遺こした梅酒を味わう詩を紹介します。なお、彼女は福島の造り酒屋の娘でした。 由 無
参考:詩集『智恵子抄』(龍星閣)
石田波郷 わが死後へわが飲む梅酒遺したし
相馬遷子 梅酒飲む波郷を思ひ更に飲む
石塚友二 とろとろと梅酒の琥珀澄み来る
松本たかし 貯へておのづと古りし梅酒かな
川田長邦 医師吾に妻がつくりし梅酒あり
高村光太郎
1883〜1956年。東京の下谷出身、東京美術学校卒業。大正3年に最初の詩集『道程』を発表後は彫刻に専念したが,昭和16年に亡き妻・智恵子への想いを詩集『智恵子抄』に表す。昭和31年、73歳で死去。
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆(つつ)み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒涛の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻きにする。
夜風も絶えた。
『智恵子抄』より
梅 酒
(参考) 梅酒の俳句