彼には唯一の相棒がいる。たまたま狆らしからぬ、やや整った顔つきの雑種犬として生れたがために引き取り手がなく困っていた飼い主から陳老が貰い受けて飼っている珍種で、名を「珍宝(チンパオ)」といい、もう十二歳を越す老犬となっている。なんとか気品を保っているものの顔の皺がいちだんと目立ち、毛つやの衰えも隠せない、目も白内障がかっている。

 ―ところで「狆」(ちん)は日本原産といわれ皇族にも愛玩されてきたが、江戸時代に「犬公方」で有名な綱吉の愛玩犬がこの狆であり、大奥で小型座敷犬として寵愛されたのを発端に各地の大名が競って飼育を始め珍重され、やがて狆は大名から町人に広がり「富豪」の象徴となる。 当時の狆の生活ぶりは贅沢そのもので、歌舞伎の台詞では「いっそ狆になりたい…」なんて言われたほどである。 ペリー提督がこの珍犬を数頭日本から持ち帰り、ジャパニーズ・チンとして欧米でも愛狆家が増えた。また、ロシア帝国のニコライ皇太子が明治二十四年に訪日したおり狆に謁見して、思わず「オーチン・ハラショー!」と言ったとか。―

 今や賃金を稼ぐあてもなく賃借とてできる知人も去り、また虫歯の鎮痛ままならぬ主の窮状を見かねた珍宝、なんとか恩返しをしたいばかりに、ちんころにしては真剣に頭を絞った。陳腐なちんちん芸では大道で駄賃も貰えない。さすればと、亡き芸人のパッチンやらポテチンやら落語家文珍の頭かきかき仕草などの、楽ちんかと思える人真似の珍芸に挑んでみたが、哀しいかなチンパンジーやニホンザルほどの器用さもなく、主人をがっかりさせてしまう。

 8月15日。お盆で墓参りやらA級戦犯の祀られる靖国神社詣でがマスコミで騒がれる中、町はずれの鎮守さまに参詣し、人生の行く末について涙ながらに陳情、陳述する陳珍老と抱かれた珍宝の姿があった。
 当社の祭神は、悲運の死を遂げた鎮西八郎こと源為朝を祀るものであり、為朝の母なる江口の遊女ゆかりのこの里の氏神として密かに生き延びた清和源氏の末裔が建立したと伝えられる。鳥居は高さ3メートルほどの小ぶりで、両側に草木生い茂るトンネルのような道を抜けて佇む拝殿は藁葺きである。

 ―ここで、為朝について少し触れておこう。為朝は父、為義とともに崇徳上皇に組して、後白河天皇と時の権力者平清盛、兄の義朝(義経の父)と骨肉相争うが敗れる。為朝は弓矢の術に優れた武将であったが、弓を射られないよう腕の筋を抜かれての伊豆大島へ流罪となる。これが保元の乱(1156年)であり、為朝の生涯を滝沢馬琴は『椿説弓張月』という勧善懲悪、荒唐無稽な伝記物語として描いているが、琉球に逃れ王朝の先祖になったとの伝説が沖縄に残されている。
 江口の里は現在の大阪市東淀川区に江口の君堂として残っているが、平安時代頃から京と攝津の間を淀川の船で往き来することが盛んになった。江口は山陽道と南海道との分岐点であり、宿とともに遊里も発達した。西行法師と遊女妙とが歌を交わしたことで知られている。―

 この風変わりな、人生の惨敗者ごとき沈痛な面持ちの参詣者を見かねた大明神は、
「朕ツラツラ思フニ不沈戦艦大和ノ撃沈、鬼畜米軍ニヨル御国ノ鎮定、シカシテ敗戦コノカタ六十有余年ノコノ日ニアタリ、カクナル珍客ニ出会フトハ珍事デアル、朕ハ汝ノ殊勝ナル心ヲオモンパカリ、汝等ヲ鎮護スルモノナリ。サレバ、チンニマツワル供物ヲ神前ニ謹シミ慎ミテ陳列セヨ」
 おごそかに告げた品が「チンゲン菜、青椒肉絲、名古屋コーチン、豚珍軒ラーメン、ナラビニ青島(チンタオ)麦酒」であった。(続く)  
                            





 

                 
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